Christophe Bagonneau 写真展

Publié le par alliance francaise sapporo

 

私は写真を撮る術を知らない。偶然や、直感によって写真にするのである。時を盗むことなど何も知らず、出来事や日常に勝るものなど何も知らず、また同様の無能さで休暇や婚姻を無為なものにしてしまうこともある。特異な脈絡の中で供え物となるような、誰かが与えようとしてくれるものしか撮るに至らず ― すなわち、唯一無二、何も変えず ― 雨降る午後の自分のアパルトマンの中、不確かなストーブガード、そこから離れることも、それを捨ててしまうことも、ましてや乗り越えることなどはもってのほか。私は光を作り出す術も知らない。肌ぎりぎりの、その欠点も含めて、その緊迫したカットの中にやってくる光をそのまま受け取るのみ。時々何かをもぎ取ってやろうとするのは、それでも、恐らくは、そういったもの。研ぎ澄まされた身体の輪郭のぼやけ。ゆえに、我らの眼というものは ― むしろ、我らに従うようなことなど殆どなく ― 我らの器官によって与えられた感覚が現実と感じるものの中に、無差別に送られてくる曖昧さと明快さ、それらの世界のどちらか一方を留めるのである。

 

私が真に写真の世界に入ったのは、眼が我らを見つめるものを確信したとき、アジアにやって来た頃にあたる。あえていかなる解釈にも頼ろうとは思わないが、まさに私が目覚めた場所で、自らの目的を選択することにより、あらゆる必要な結果をそこから引き出てしまった。未熟な、抑圧された、男性の身体。そしてもし、それにもかかわらず、ユダヤ・キリスト教徒としての想いの中で、その生命を追い求めようとする意識があるとすれば、ノヴゴロドの町がその黄金でいまだ輝いている総体の中で、私は、私のキリスト教的西洋の最も東洋的な部分を捕まえたのである。

 

であるから、私のやり方にはシステムがあるわけではなく、ある種の偏執といえるもののみ。ただ単に、私は、顔と顔、身体と身体の対峙なくして、 ― あるいはほんの少しの例外を除いて ― 踏みとどまることができない。

 

 

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